策楽なつき

お空の果てから電波を飛ばしています

霧越邸殺人事件で「老い」を考える。

 最近、綾辻行人氏の霧越邸殺人事件を再読した。あの本を最後に読んだのは2年前だったか3年前だったか。長らく読んでいなかったが目についたのでもう一度読んでみようと思った。これはネタバレをしつつ感想を書いていく。
 未読の方は読んでからの方がいいかもしれない。読んでいること前提で話す(読んでなくてもただ一部にしか触れないので読んだからといって壮大なネタバレになることはないと思う)だからあえて本作のあらすじは書かないでおく。それでもいいなら。前置きはこの辺。本編行くよー。

 作中で、二人の男性が「老いる(生きる)ことが美しいか」「美しい今のまま温存するか」を話し合っている場面が私は印象に残った。この記事ではここにしか焦点を当てないからあえて該当箇所以外の部分は触れないでおく。読んだ方はああ、あの場面ね。ふーんと思ってほしい。
 初読では、「若く綺麗で美しいまま保存するのが美しい」という後者の意見に共感した。だが歳を重ねるにつれ前者の考えも理解できるようになった。美しい人の呼吸ひとつ、動作一つはきっと眠りについている時よりも見ていて心地のいいものだ。仮に死体がどれだけ綺麗だろうが、生きていてほしい。そう願ってしまうのだろう。
 だが、私は私に対してだけはどうも美しいまま保存してほしいと思った。私の命の灯火が消えそうになった時、それに身を任せている時が一番美しい自信がある。一般的に若いとされる今がいい。死んでかわいそうだと思われる若さがあるうちがいい。誰かが言った『今日より若い日はない』という言葉。仮に私が老人になっても今日より若い日は永遠に来ない。
 過去を見てしまう。若い日と言われるとどうしても「今」を考えられない。きっと過去の栄光というものに縋ってしまうのだろう。過去、私がただ青臭かった時代があったというだけである。だが、「老いること」を否定した彼は「青臭い子供時代」もあってはならないと言った。それだけでなく食事をすることすら許されないと言った。美しい「今」をどうにかして守ろうとした。本書の中で一つ、花の例えがあった。花は枯れると分かっているから美しいのだ。と。散りゆくものは美しい。この美しさというものは普遍的ではなくなくなるということを認識しているのでこれらが美しいと思える。

 揺らがせてくるな。老いていく美しさを知り、価値観が変わった上でこういう話をされるとどうも納得してしまう。美しさというものは美しくないものとの対比がないと美しさを見出せない。世の中に醜いものがないと美しいものは生まれない。醜いという価値観も生まれない。そんな平等性のある社会は素晴らしいだろうか。果たして、このような世界は。面白いと言えるのだろうか。醜いものの対比があってこそではないか。

 美しさといえば、本書の上巻にこのような記述があった。老いるべきではないと思わせる女性の美しさについて。「諦めの感情、静かな諦めの感情は美しい」「諦念や諦観の心の形はどうにもならない未来を諦め、今だけを静かに生きているそれは奇跡なのだ」と「美しさの温存」を謳った男性が言った。
 この諦めという感情。私はどこかで視た、聴いたことがあったように思う。どこだったか。それはわからない。忘れてしまったけれども。どこかで、何かで。この本だったか。忘れてしまったけれど。どこかで、体験した。この諦めという件。思い出せない。もしかしたら体験しているのかもしれない。その体験とやらがどこに落ちていたか。

 人は必ず、どこかで、老いてしまう。それは私が明日を生きれば老いるのかもしれない。何かを食べれば老いになるのかもしれない。何かを知れば老いになるのかもしれない。だが、それでいい。いつかはそれを美しいと慈しんでくれる人に出会えるのなら。それが私の、それぞれの人間の美しさなのかもしれない。

 

引用 綾辻行人 『霧越邸殺人事件』 KADOKAWA  2014年