策楽なつき

お空の果てから電波を飛ばしています

【散文】 ラフ 踊り

 

 一体何があったというのだろう。

 ずっと踊っている彼女がいた。そこは独壇場。彼女の場所と呼ばれていた。そんな彼女が死んだ。寂れた思い出。今でも踊っているのではないかとそう幻視した。独自の音楽が幻聴した。いつも聞いたことのない歌に合はせて足音を奏でた。やけに残る音。それが彼女の才能だった。ところで、先ほど彼女が死んだと明記した。事実は違うのかもしれない。葬儀が行はれてゐないのだ。それは『死』と云るのだろうか。

 彼女が踊り場に姿を現はれなくなった前々日。叫び声が聞こえた。幻かと、夢かと、思いたい。彼女の叫び声だったのやもしれない。思ひ出せないのだ。どうしても。彼女の声が。姿は克明に覚へているのに。なぜだろうか。今日も人知れず誰もいない部屋で、手を合はせる。彼女の幸福、若しくは、冥福を。噂の中で死んでいった彼女に。思い出の中にしか存在しない彼女に。

 

 毎週月曜日、木曜日、日曜日。踊り場は賑わっていた。かつての彼女の場所へ足を運んだ。以前は賑はせていた場であったが、誰もいなかった。スカートが風に触れる。石を踏んだ。以前であれば転ぶことはなかっただろう。体幹の衰へた私には困難なものであった。

 かろうじて見へていたはずの目に、石が留まらなかったことに何とも云ない恐れを感じた。少しずつ、命がなくなっていく。それ故に、今日ここに来られたことを悪くはなかったと感じた。私は彼女を愛していた。死んだと思ひたくなくて、記憶を改めた。機能の無くなった耳を、少ししか残っていない身体を、眼を。彼女がゐないのであれば全て必要のないものに思へた。失っても構わない。生きてゐると思ひたかった私の虚言と思って欲しい。

 

 もう残された時間が少ない。どうか聞いてはくれぬか。

 私はかつて、音楽家を志していた。歌だけでは食ふてはいけなかった。私は元々、体を動かすことが好きであった。身体を動かし、そのリズムに合せながら曲を考える日もあった。少しでも自分の音楽をよく見せようと思ひ、踊りを行うことを決意した。

 気がつくと歌うことを曲を作ることすらやめていた。一つ、創作家としての死であった。だが、耳は聞こえた。身体を動かすことはできた。

 とある時、踊りの日の前々日。衣装を買いに行った。その際、階段の踊り場へ身体が堕ちた。痛みが全身に走った。住処へは帰れたものの、その夜、明後日の練習をしようと思った。動く度に痛みが走った。叫び声が木霊した。その声はいつしか音になっていた。声すら出せなくなり、この街を出た。ひとりぼっちの舞台から幕を下ろす時が来たのだ。自分の死をきっかりと体験した。

 

 その頃から、私は別の人になっていた。彼女はとてもとても美しかった。黒髪から白髪になった。老化し、醜くなった顔の写る鏡を割った。美しい衣装を雑巾にし、自分の音楽を五線譜に返した。ただ、ただ。それだけだ。

 退屈な時間だった。短くも、儚く息させてくれたこの世に盡をあけて此の噺を終わりにしたいと思う。屍になり、骨になり、風化した私を、彼女を、どうかどうか看取ることをお許しください。