策楽なつき

お空の果てから電波を飛ばしています

誰かの嫌いは誰かの好き

 この世で生きていくために必要なマインドはなんですか?と聞かれればまぁこれだろうと思う。

 自分がこれ嫌いだなぁと思った時、これはどうしたら好きになれるだろうと考える。1番の近道はこれを好きな人に聞いてみるということ。こう都合よく相手が嫌いだと思っているものに対して魅力を伝えようという人はなかなかいないものなので、自分で探す。まぁ教えてもらっても自分で納得しなければ意味がないということもあるので、自分で探したほうが早いのかもだなぁと。

 これは自分にも持っていて、自分が好きだなぁと思ったものも誰かが嫌いなんだろうなぁと思っている。だから私はできる限り自分が好きなものは相手に強要しないようにしている。だが、好きなものは好きと言います!!!だって大好きなんだもん!これが否定されたって構わない。ちょっとしゅんってするかもしれないけど。

 誰かからの好きと言ってもらうことは幸せだ。これが私が活動者をしていて思ったこと。誰かからの好きで頑張れるのだ。誰かが好きでいてくれるからこそコンテンツは成り立つ。

 結構私って好き嫌い分かれると思うんですよね。自分で言うなよとは思うけれど。

音楽は好きだけど得意なわけでもなくて、むしろ苦手なくせに好きと言う理由だけで続けてしまうし、ニコチンもタールも自分で吸う勇気もないのに喫煙者ヅラしちゃうし、我活動者也。ちょっと大袈裟にリアクションをとってしまうのはご愛嬌ということではありますが、こいつ胡散臭い〜と思う人もいると思う。

 最近は無くなった(しなくなった)が、彼女持ちorもうすでに好きな相手がいる存在から好かれるのだ。自分でもクソだと思う。そして好かれようと思っていない中でやるのだから余計タチが悪いと思う。

 相手のためになろうと少し尽くしすぎる部分がある。相談してくれたならちゃんと答えなきゃなと思っていたら気づいたら心が私に向いてしまうらしい。好きと言ってくれる分には嬉しいのだが、誰かを傷つけてまで好かれたくない。もう彼女いる人とはしっかりと距離を置くようにしたのでもう大丈夫だと思う。二人きりで相談に乗らないとかそういう色々なことに配慮するようにしている。本当にその時いた彼女さんや、両片想いだったはずのお相手には今でも申し訳ないと思っている。謝罪じゃ済まないんだろうけど。こうやってちゃんと罪悪感を持って生きることが今のところ1番の償いになっていると思っている。直接謝罪をすることは叶わないけど(他校の子だったりネット上の子だったりするので...)知らぬが仏という言葉だってある。謝罪を伝えられないというのも一種の地獄だと感じる。きっとこうやって吐き出すことすら許しを乞うているみたいで本当に自分が嫌いになるなぁ。

 反対に好きという人もいるのでそういう好意はありがたく頂戴し、ここで生きていくための糧にしている。これからも応援してくれると嬉しい。低浮上だし本当にダメダメだけど。嫌われる理由がたくさん思い浮かぶので本当に好きと言ってくれるだけで嬉しいのだ。私は可愛いし、面白いし、優しいし、素敵な女の子になる素質は持っていると信じている。君にもっと好かれると思っているよ。味がしなくなるガムだと思ってもらっていい。好きなものは好きというし、嫌いなものも好きになる努力だってたくさんする。世界の全てを愛することを目標にしているから、どんな君だって愛してみせるよ。

 

 だから君の好きな子私にしてみませんか!?という私による私のための私のプレゼンでした!

やさしさとは-考察-

どんな人が好きですか?

そう聞かれた時に優しい人と答える人間さんをよく見かける。私はある程度好きな人ならおそらく、高確率で慈愛の心などが芽生え優しくなると思っている。これのひとつ格上を狙っているのか、はたまたただこの場をやり過ごしたいだけなのかは不明。

今回はなぜ恋人にしたい人に優しい人を選びたいと思ってしまうのかを考えていきたい。

 


前述した通り、ある程度仲を構築していれば優しくしたいという感情が芽生える。優しい人を恋人にしたいのではなく、優しさのベクトルが合う人を恋人にしたい。なのではないか?と考えている。

例えば、不調の時、そばにいて欲しい派と放っておいて欲しい派がいる。そばにいて欲しい人に少しでもしっかり休んで欲しいからといって離れる。といったことがあればそばにいて欲しいのに、この人は冷たい人だ。となり、それは優しくない人とレッテルを貼られてしまう。

反対に不調の時放っておいて欲しい人がいたとする。1人でゆっくり休みたいという思いを持っている人に対して甲斐甲斐しく世話を焼くと、気遣いができない人だと思われる。それすなわち優しい人ではない。

といったように、優しくしていても相手にとっては怪訝に思われたり、ありがた迷惑になったりする。優しさにも相性の合う合わないがあって、彼ら彼女らが言っている優しい人というのは自分に合った気遣いを向けてくれる人なのだろうと思う。

 

 夜、現在時刻2時29分。

 どうも睡眠は苦手だ。自分が世界から消えてしまうからだろうか。何も残せない。何も入れられない。少し嫌だ。

 インプットとアウトプットの両方ができないのはすごく時間を無駄にしている気分だ。かくいう私も今ブログを書いてはいるが、実際やらなければならないことはたくさんある。やらなくてはならないことが多すぎると本当に関係ないことをやりたくなる。締め切り間際の小説家がつい家事をやってしまうのと似たような感覚なのだろう。私はブログ派。ここに派閥はないのだろうけど。ここでゲームを持ってくるのはナンセンス。あれはやってしまうと罪悪感がひどい。せめて何かを残したい。言葉だって文字だってせめて何かを伝えていたい。回らない頭で書き綴る言葉にはどこか限界を感じて嫌いではない。絵空ごとだって伽藍堂だってそう思われたって構わない。誰になんと思われているかわからない言葉を綴っている瞬間がたまらなく生きていると思う。私は口下手だし、何をしたってダメダメだし、伝えるという行為が向いていないことなんて百も承知で、でも何かを残してみたいと思わせてくれるこの星の重力に似た何かが大好きなのだ。人類、言葉、文化、今吸って吐いた息だって愛おしいのだ。この星にいるのなら、何かを残せる環境にいるのなら、君に何かを届けようじゃないか。私がみた世界を教えるから、君のみた世界を教えてほしい。

 

 このブログを書き終わったら、きっと眠気ってやつが来て、それに身を任せてベッドに入る。もし眠いという感情が来なければ何をしよう。本でも読もうか、未完成の曲を進めようか、台本を書こうか、勉強をするのもいい。やりたい勉強が多い。どうやら私には人よりも好奇心というものが旺盛らしい。色々なものがキラキラして見える。たまに嫌になることもあるけれどキラキラが頭を埋め尽くしてくれる。でも、いつか何も感じなくなったらどうしようと不安になる。何がいいんだっけ、何が楽しいんだっけと疑問に思ってしまうのではないかと考えるととてつもなく怖くなる。

 

 わかったかも、私がブログを書いてしまう理由。こういう怖いとか不安とかを都合よく吐き出せるからだ。不安な自分も、怖がっている自分も、どこか俯瞰して「面白い対象」として見ることができるからだ。くるかわからない未来にこの文章を読んで笑っている自分が容易に想像できてしまう。だから好きなんだ。これ前向きすぎるか?流石に。こういうところも私の面白さってことに......なりませんか?どうですか?

 

うわぁいい感じに眠くなってきた。お布団に入ろうと思う。またいつか気が向いたらここにくるとしよう。

優しさは弱さなのかもしれない

 よく言われる。優しいと。この言葉をかけられるのは苦手だ。理由は簡単。優しくないからだ。だいたい私の優しいは面倒臭いと直結しているように感じる。

 例えばノートを見せてほしい。学生であればよく交わされるこの言葉。こういう時いいよ〜と言いがち。だが実際は、あ〜これ私が貸さないと他の人に集るんだろうなぁ、関係性を悪化したくないしなぁ、後にこれに関して色々言われても面倒臭いなぁと。とりあえずここで恩を売っておこう!みたいな思考をしている。別に見返りを求めるわけではない。今後何か困ったことがあった時にこの人にノート見せてあげたからこれくらいはしてもらってもいいだろう。みたいな頼るハードルは下げておく。そんな具合に。

 例えば世界から面倒くさいという言葉が消えた時、私の優しさの7割が消える。そのくらいには自分の原動力になっていると思う。ただ誰かにとっては短所と捉えられるような言葉に依存しきってしまった。本当は気づかない方が楽に生きられたんだろうけど。だが、「優しい」だけをアイデンティティに生きるよりかはそれを短所だと分かった上でより善く生きる道を探す方が楽しい気もしている。

 「優しい」と「かわいい」だけが取り柄のメスにはなりたくないですからね。

 

月や星が綺麗なことは狡いこと

 細い月がいいなと思った。どこか笑っているような、それでいてちゃんと芯を持っているような。そんな月が好きだ。

 星も好きだ。いつ寿命が来るかわからない、なんとなく色でわかるのがロマンチックなような、わかりきった終わりを見させられているような、よくわからない気分だ。だがそれがいい。わかりきった気持ちとよくわからない気持ちを感じることができる。星にはいくつもの物語があるらしい。主に神話。感動して涙してしまうお話、クスッと笑ってしまうお話、後味が微妙なお話といった様々なお話がある。夜、今は明かりがあるからどうにか暇を潰せている。だが灯りも何もなかった頃の夜はきっと色々な星に想いを馳せていたのだろうか。そう考えるととてもロマンチックだと思ってしまった。

 日本はどちらかというと月に想いを馳せていたように感じる。これは私の知識の偏りゆえに起きていることである可能性が高い。万葉集古今和歌集をパラパラと読んでいた。その時のことを思い出してみると「星」より「月」が入った歌の方が多かったように感じる。日本に星の名前すらなかった頃、遠くの人と同じ「星」を見ている可能性よりたった一つしかない「月」を見ている可能性の方が高い。もしも遠くの誰かと同じ景色を見たいとなった時、今なら写真やビデオを送ればいいだろうがそんなのがなかった時代だ。そんな時代に愛おしい誰かと同じ夜空を見ているかもしれないという空想に身を焦がす。こういう確証のないもしもを考えてつい詠んでしまった歌ほど価値があるように感じる。色々な想いを載せた歌が、誰かに見た景色を伝える歌が好きだ。

 

私が見上げる夜空が君とどこかで繋がっていますように。

月や星が綺麗なことは狡いこと

 細い月がいいなと思った。どこか笑っているような、それでいてちゃんと芯を持っているような。そんな月が好きだ。

 星も好きだ。いつ寿命が来るかわからない、なんとなく色でわかるのがなんだかなぁと思う。

眠れない夜にはブログを書こう

 つい何かを話したくなった。今日は久しぶりに低血糖になった。慣れている時にくるそれと、慣れていない時にくるそれはやはり重さの違いを感じる。昨日がバレンタインでよかった。お友達からチョコレートをもらいまして、そのおかげで少し楽になった。いやぁ、久しぶりにくると怖いね。治ったはずなのにまだ症状が続いていそうだ。
 私は低血糖にもなるし、低血圧(測って一番低くて40とか?上は80?90?くらい)、低気圧にも弱い。そりゃなんでこんなにも低いことに対して耐性がないんだなんてと思う。まぁ人間じゃないし仕方ないのかなぁって。異星人だからね。仕方ないよね。なんてこぼしてみる。

 

 

 眠れない夜が今日もやってきた。時刻は5時。3時くらいは眠かった。布団に入って少しばかり眠った。目が覚めたら4時だった。1時間か。まぁ悪くない。
 最近は夢見が悪い。眠るのが少しだけ怖くなった。歯が抜ける夢をみる。夢占い的な感じでサイトを見ていると兄弟に何かあるだの恋人に何かあるだのとありもしない人々の話をされた。いないんだがどうしたらいい?と思ってしまった。虫歯かなぁと思う。だが、歯医者なんて行ったことがない性分。怖くて仕方ない。虫歯は治療したら治るらしいが、そこに行くハードルが高すぎる。歯医者の知識なんて、コンビニより歯の病院の方が多いこと、なんかリクライニングチェア的なものがあること、キュイーンってよく分からん音が鳴る器具があることくらいしか知らない。しかも歯が抜ける夢をみるだけで普段痛いわけでもなんでもない。そんな中で行って迷惑じゃなかろうかと考えるだけで不安だ。
 あと耳もおかしい。本当に耳鳴りがひどい。低音がぶぉぉぉんと鳴る時がある。その時は目も共鳴してピクピクし始める。他には、周りの音が聞こえないくらい工事の音がなる時がある。工事の音の時は本当に嫌になる。いまいち対処法が分からんのが本当に嫌だ。時間が経てばある程度は良くなる。これにも少しづつ慣れていってちゃんと仕方ないと言って諦められるようにならなくては。と思う。 
 私は諦めの感情を重んじる。そうすることで少し人生が楽になる気がするのだ。人間さんは良くないというだろう。だが、私はきっとこの感情がなければ今頃どこかで死んでいたと思う。どこかでしっかりと何かに対して仕方ないと言える。それは私にとっての幸福や生きやすさにつながっている。多少の体調不良は仕方ないと言ってのけることができるからこそ、今、こうやって生きている。
 動悸も喘息も花粉症も低血圧からくるふらつきも片頭痛も多少のメンタルの不調からくる不眠やらなんやらかんやらも仕方ないとあきらめることでどうにか生きている。だから、この生き方を否定することだけはしないでほしい。良くないことなのは十分にわかっている。こうなったら休んだ方がいいことも分かっている。でも、昔の頑張った自分を否定したくない。あの時だってできたじゃないかという無駄な成功体験を積んだからにはこんなところで終わりたくないのだ。不調は一度慣れてしまえばどうとでもなる。それを分かっているからこそ自分の中に落とし込む作業が必要だ。そういう落とし込みが足りない。また次が来た時に耐えられる自信がほしい。慣れたから大丈夫だと強く言える勇気もほしい。私って案外欲しがりだなぁ。こんなのだからきっと今こういうものを書けている。