策楽なつき

お空の果てから電波を飛ばしています

元気がない時にやるare

 元気ない時何やってたけ?なんて考える。ああ、ブログ!!してた!!思い出した!!厨二病真っ盛りの私は言葉を紡いでいるだけでかっけ〜なんて思っていて、ただこうやってパソコンをパチパチやるだけで世界を牛耳っている気分になるのだ(誇張表現)。というのはおいておいて、最近なんで元気ないのぉを考えてみよう。純粋に学問がうまくいっていないのが要因かなぁなんて思う。

 一個前に書いたVtuberの配信挨拶についても、きっともっと書けたと思う。昔の私なら、きっとスラスラサラサラわかりやすい言葉でかけたのかなぁなんて思う。やっぱり書き続けるのって大事だ。言葉が出てこない。出てきてほしいのに、出てこないのはなかなかにクるものがある。あの時、やめなければよかった。向いてないと言って逃げなければよかった。厨二病っぽくてダサいじゃないなんて言葉封じ込めて仕舞えばよかったのだ。後悔してももう遅いか。今の私なりに頑張ってみようか。

 書き終わる頃にこの言葉が出てきたらすごくすごく快方に向かっているということだろう。またね

Vtuberで言葉を考える。

 Vtuberとかいうのが最近のブームなので配信挨拶を言語の観点から見直していきたい。ちなみに寝る前の暇つぶしなので途中で眠くなり、支離滅裂な文章になる可能性があることもご了承願いたい。

 

 私が考えてぇ!と思うのは、先ほども述べたように配信挨拶についてだ。私としても、日本語学にそこまで詳しいわけではないので、ごく稀に虚構が入り混じっている可能性が非常に高い。下手の横好き程度に視覚で捉えてもらえれば幸いに思う。

 

 Vtuberである彼ら彼女らはいわゆるキャラクタ、所謂二次元の存在である。そのため現実世界では人間としての営みを続けているだろう。だが、彼女らの発している言語は果たして現実世界でも使われているだろうか。一般的なVtuberの挨拶は「こん〇〇」というものが多い(一部例外あり)。配信の終わりは「おつ〇〇」という言葉が発せられる(一部例外あり)。Vtuberは活動している間は獣であろうが、幽霊であろうが、魔法使いであろうが、活動という枠組みから外れれば人間で、人間同士の社会で生活するのだろう。その際に自分が配信で用いている言葉を次元を超えて持ち越さないはずである。配信挨拶は特定のコミュニティやファンベース内でのみ理解されるものであり、これは、Vtuberが独自のキャラクターを演じているためだからだ。インターネット上の特定の文化において、次元の持ち越しは本来行われてはならない。それは一部界隈でのみ使用され、意味が通じるものであり、わたしたちが生きている社会では伝わらないことが多いからである。

 これは、いわば、一部地域にのみ通づる方言のようなものである。だが、方言とは少し違う。この方言のようなもの(配信挨拶)は一歩地域を出れば通じないことが多い。インターネット上の特定の文化やコミュニティのみ使われる。活動年数にもよるが、方言のように長い年月をかけ、着実に浸透するわけではない。配信挨拶は年月が経たない言葉であり、方言のように誰かが言った言葉が派生しているわけでもない。長年連れ添った方言はある程度標準語になおし用いることが可能である。だが、特定のコミュニティ内でのみ用いられる配信挨拶は、長年、居ればいるほど当たり前に「用いざるを得ない」ものであり、そのコミュニティにいる以上は半強制的に使わなければならないものだ。

配信挨拶自体はなんだっていいわけだ。「こん〇〇」の中に入るものは、苗字からとってくるかもしれないし、名前からとってくるかもしれない。なんだっていい。その中でVtuberという活動者はひとつを選んで皆に新たな言葉として挨拶を教える。挨拶のほかに語録やその枠独自の営みの中できっとまた新たに言葉を生み出し、言葉を教え、枠で当たり前に使われるようになる。そのような挨拶は、極めて個性的で独創的な表現を含んでいる。それは、一般的な言語構造から外れる。Vtuberが視聴者とのコミュニケーションをより鮮やかにするために行われるだけの言葉であり、非常に恣意的なものであるように感じた。

 

 

霧越邸殺人事件で「老い」を考える。

 最近、綾辻行人氏の霧越邸殺人事件を再読した。あの本を最後に読んだのは2年前だったか3年前だったか。長らく読んでいなかったが目についたのでもう一度読んでみようと思った。これはネタバレをしつつ感想を書いていく。
 未読の方は読んでからの方がいいかもしれない。読んでいること前提で話す(読んでなくてもただ一部にしか触れないので読んだからといって壮大なネタバレになることはないと思う)だからあえて本作のあらすじは書かないでおく。それでもいいなら。前置きはこの辺。本編行くよー。

 作中で、二人の男性が「老いる(生きる)ことが美しいか」「美しい今のまま温存するか」を話し合っている場面が私は印象に残った。この記事ではここにしか焦点を当てないからあえて該当箇所以外の部分は触れないでおく。読んだ方はああ、あの場面ね。ふーんと思ってほしい。
 初読では、「若く綺麗で美しいまま保存するのが美しい」という後者の意見に共感した。だが歳を重ねるにつれ前者の考えも理解できるようになった。美しい人の呼吸ひとつ、動作一つはきっと眠りについている時よりも見ていて心地のいいものだ。仮に死体がどれだけ綺麗だろうが、生きていてほしい。そう願ってしまうのだろう。
 だが、私は私に対してだけはどうも美しいまま保存してほしいと思った。私の命の灯火が消えそうになった時、それに身を任せている時が一番美しい自信がある。一般的に若いとされる今がいい。死んでかわいそうだと思われる若さがあるうちがいい。誰かが言った『今日より若い日はない』という言葉。仮に私が老人になっても今日より若い日は永遠に来ない。
 過去を見てしまう。若い日と言われるとどうしても「今」を考えられない。きっと過去の栄光というものに縋ってしまうのだろう。過去、私がただ青臭かった時代があったというだけである。だが、「老いること」を否定した彼は「青臭い子供時代」もあってはならないと言った。それだけでなく食事をすることすら許されないと言った。美しい「今」をどうにかして守ろうとした。本書の中で一つ、花の例えがあった。花は枯れると分かっているから美しいのだ。と。散りゆくものは美しい。この美しさというものは普遍的ではなくなくなるということを認識しているのでこれらが美しいと思える。

 揺らがせてくるな。老いていく美しさを知り、価値観が変わった上でこういう話をされるとどうも納得してしまう。美しさというものは美しくないものとの対比がないと美しさを見出せない。世の中に醜いものがないと美しいものは生まれない。醜いという価値観も生まれない。そんな平等性のある社会は素晴らしいだろうか。果たして、このような世界は。面白いと言えるのだろうか。醜いものの対比があってこそではないか。

 美しさといえば、本書の上巻にこのような記述があった。老いるべきではないと思わせる女性の美しさについて。「諦めの感情、静かな諦めの感情は美しい」「諦念や諦観の心の形はどうにもならない未来を諦め、今だけを静かに生きているそれは奇跡なのだ」と「美しさの温存」を謳った男性が言った。
 この諦めという感情。私はどこかで視た、聴いたことがあったように思う。どこだったか。それはわからない。忘れてしまったけれども。どこかで、何かで。この本だったか。忘れてしまったけれど。どこかで、体験した。この諦めという件。思い出せない。もしかしたら体験しているのかもしれない。その体験とやらがどこに落ちていたか。

 人は必ず、どこかで、老いてしまう。それは私が明日を生きれば老いるのかもしれない。何かを食べれば老いになるのかもしれない。何かを知れば老いになるのかもしれない。だが、それでいい。いつかはそれを美しいと慈しんでくれる人に出会えるのなら。それが私の、それぞれの人間の美しさなのかもしれない。

 

引用 綾辻行人 『霧越邸殺人事件』 KADOKAWA  2014年

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 現在時刻21時。全くおはようでもなんでもない時間だ。だが、まぁ、私にしては早い始動。やろうと思ったことをやるのに時間がかかってしまう私にしてはやや早めに行動できているのではないだろうか。

 ただの日記だって感じたことだって君と共有できたらもっと楽しい。そう思わないか?

 今日は特に何もない日だった。4/13。何かの節目でも、何かの記念日でもないが、ブログ開設記念日といこう。サラダが美味しかっただけのサラダ記念日が許されている星だ。私がブログを開設したことだって、きっと誰かは喜んでくれるさ。文字なんてきっと見向きもされないだろうが記録することに価値がある。私はこれを読んだ、こう感じた、こういう考え方もできると思った。そういう何かが伝えられたらいいと思う。